私は、蝦蛄(シャコ)になりたい。

2021年に50歳になるおっさんのこれからをブログに記載します。

家族の話 父の死

先々週の早朝に母から電話があった。電話はすぐに切れたが、嫌な予感がしたので折り返し電話したら「お父さんが死んだ」と言われた。「今、救急車を呼んでるけど冷たくなってるので死んでると思う。」と震える声で母が話した。

急いで戻ることを伝えて航空券をネットで予約し、最小限の荷物をもって親が住んでるマンションへ向かった。

その間も母とは何度か電話したが、救急車の対応や警察への連絡などで母は忙しそうだった。

親の住んでるマンションへ到着した時には、父は布団に寝かされ顔には布がかぶせられていた。

 

父は、風呂場で倒れて死んだらしく死亡解剖の結果は死因は不祥な内因死とのことだった。要は、持病の心筋梗塞だったのだろうが詳しくはわからないって事だ。

 

葬儀屋からスーツとネクタイと靴のレンタルを行い、ユニクロカッターシャツだけ購入した。コロナ渦の中であることからお通夜や葬儀は家族葬で執り行う事にした。

 

親も数年前に引っ越したマンションなので近所付き合いも特になく、葬儀の参加者は親戚と私の兄弟だけだった。

 

余り人付き合いが得意でない父からすればこのくらいが丁度良かったのかもしれない。

 

葬儀後に、家族で父のことを話したが、母も姉も妹もあまり父の良い話はしなかった。

葬儀の後ぐらいは父のいい思い出を家族で話したかったが、誰も父に良い思い出はなかったみたいだ。私一人でも父との良い思い出を話そうと頑張るが、女3人にかき消され、女癖が悪かったや借金して大変だったなど、文句と愚痴で終わった。

 

葬儀後は、市役所やら銀行の手続きやらでバタバタし、初七日が終わってから母とゆっくり今の私の生活について話した。母はえらく心配していたが、私は母がこの家に一人で暮らす方が心配に思えたが、私は母ともう一緒に暮らせないのでどうにか姉や妹と話し母が一人で暮らさなくていいようにする必要があると考えた。

 

母と一緒に暮らせない理由は、私が元嫁と離婚した原因が母だったからだ。昭和生まれの母は元嫁へ色々と文句を言っていて、元嫁は私に話せばいいのに我慢し続けたせいで精神的に病んでしまい離婚することになった。

母が元嫁にやっていた嫌がらせを知ったのは、離婚届けを元嫁に渡されたときだったので、元嫁の決意は固く修復もできず離婚することになった。

 

妹は、他県に住んでいるし嫁いでいるので母の面倒は頼めない。頼めるのは姉だけだ。

母が住む近所に、姉が一人暮らししているので姉に母の面倒は見てもらおうと思っているが、姉が面倒を見てくれるかはわからない。

私の自己都合で姉に母の面倒を見てもらう事になるし、私は姉とも仲良くないので母のことを頼むにはそれなりの覚悟が必要と思っていた。

案の定、姉に話したら毎月5万円を振り込めとの条件が提示された。私の現状を姉にも説明したが、姉は納得してくれず交渉の結果は毎月3万円を振り込む事になった。

姉の言い分は、「長男のあんたが親の面倒を見るのが筋でしょ。それを私に頼むならそれなりのことはしてよね!」とのことだ。

私は、「子供が親の面倒を見るのに長男も長女も関係ないよね?」と姉に言ったが「親の面倒は長男が見るもんだ!」との一点張りで話が進まない。なので、私は妥協して毎月3万円で手を打つことにした。

父の遺産は貯金だけで、貯金も数万円しかなく生命保険も100万円だったので葬儀等でほぼなくなる見込みで、それは母と姉とも話して母が管理することで落ち着いた。マンションも賃貸なので賃貸の名義を母へ変更するだけで済んだ。

 

私にとっての父は、家族が言うような悪いイメージはあるものの大切な存在だった。小さい頃はあまり一緒に遊んだ記憶はないが、父の趣味であったオートレース観戦に行ったり、海へ夜釣りに行ったりと楽しい思い出はそれなりにある。

私の心残りは、親孝行が何も出来ていないことだ。父が死んでから気づかされたというか考えさせられたことだが、親が生きている間にやらなければ意味がないと気づかされた。母に対しては出来るだけ私にできる親孝行を実行していこうと飛行機の中で考えた。